青木設計事務所の建築ブログ

静岡を拠点に活動する青木設計事務所のブログです。 家づくりをしながら考えていることや実家の井川のことなど 日々を綴ります。

2022年10月

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先週末、秋晴れの空の下「掛川の家」が無事上棟しました!

掛川の家は、古くからの住民が多く建て替えが進む住宅地の一角に、夫婦と子供二人が住む住宅の計画です。
本計画地は施主であるご主人の実家の敷地であり、子供の頃から育ってきた場所。
南側からの気持ちの良い光や風を思いっきり取り込みつつ、近接する施主のお母さんの家や周辺の建物との距離感や関係性を新たに作りたい。
解放性とプライバシーを共存させる住まいの形として「くの字型」の建物を提案させていただきました。
骨組みの段階でその雰囲気が垣間見得ました。 
縁側と屋根が南に広がる庭を抱き、家族や訪れる人を包むような大らかな住まいになることを期待しています。
さあ現場、頑張ります!

良介


 

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またまた、城山三郎です。少しはまっています。


第五代元国鉄総裁石田禮介の生涯が描かれています。初めて聞く名前です。城山三郎が描き出す人間は皆気骨のある、凛とした姿で、毅然とした態度、卑なるものを排除した人物像です。
 

石田禮介は、その中でも極めて「凄みと大らかさ」を持ち合わせた魅力ある人間として描かれています。
 

総裁を任されるにあたり、報酬は年にブランデー1本で構わないという条件をつけさせるあたりは、いくら財界人といっても並みの人間ではそうそう出来るものではありません。だからこそ国会議員相手に怯むことなく、自分の信念を貫き、国鉄の組織改革を成し遂げられたのかもしれません。国鉄総裁として石田禮介がなによりも重要視した事には「人々の安全とパブリックサービス」を第一に考えたことでした。そのための予算を国から導き出すために、国会、官僚、大臣とのやりとりでは、相手を翻弄させ、ぐうの音も言わせないあたりは圧巻です。遂には与野党議員から惜しまれつつ職を辞める事になる辺りも人間としての奥深さ、人格者であった事は間違いありません。


80歳を過ぎて、自分の記憶力の衰えを察して辞任するあたりは、引き際も潔いです。


先頃亡くなられた京セラの創業者稲盛和夫氏も日本航空の再建を任された折、無報酬で職に就き見事その建て直しをされました。

経営の神様、人格者と言われる財界人は、任された仕事に誠心誠意、虚心坦懐、仕事に取り組み、見事にその期待に応えられる経験、知識、力量を備えています。


叙勲授与を拒否した財界人は何人かいるようですが、石田禮介も最後まで受け取らなかったその一人とありました。

「精神のダンディズム」と表現しています。

主流に対して抵抗・反抗しつつも、自分のルールや美学を持ち合わせている。石田禮介にとって人間の価値を役所に決められる事に抵抗があったようです。


「租にして野だが卑ではない」

性格は粗野てぶっきらぼうだが卑しさは持ち合わせていない。そんな石田禮介の人物と生き方を知る事ができました。この歳になった私でも、自らを省み、行いを改めるべく、今後の生き方として、自分のルールと美学を持ち合わせた生き方を見いだしたいものです。

 
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住職、明王寺建設委員会の責任者を交えて、
屋根ガルバリウム色見本、外壁色見本、外部廻りの木部塗装色見本を見ながら検討中です。
私たちも設計段階から考えていた色合いを説明しながら、施主様合意のもと決定していきました。

屋根はブラウンこげ茶。
外壁杉板塗装及び化粧幕板、化粧梁は、オーク調ブラウン。
庫裡外壁はホワイトに決定。


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外壁・屋根廻りの断熱材の施工中です。
右手の青色の建材は、これから床下に敷き詰める断熱材です。
本建物の庫裡部分は長期優良住宅の仕様となっていますが、書院部分も一体的に造られるため、
建物全体が耐震等級2、断熱等級4の建物仕様になっています。
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客間より広縁、オープンキッチン、玄関を見通す。
外壁廻りのアルミサッシも設置されました。

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庫裡2階部分の進行具合。
工事の都合上、庫裡部分の棟上は書院の棟上に比べ1ヶ月ほど早く行いました。
そのため、工事の進捗状況も書院に比べ進んでいます。
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庫裡1階部分の進捗です。
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庫裡北側からの全景です。
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書院:アプローチ・客間・玄関、奥に庫裡2階部分を臨む。

屋根工事も葺き終わりました。
外壁廻りのアルミサッシも取り付けられました。
外壁の防水シートが施されれば雨の心配はありません。




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城山三郎 : 第二段は「落日燃ゆ」です。
東京裁判のA級戦犯として、唯一の文官広田弘毅は絞首刑を宣告されました。

総理大臣、外務大臣を歴任した広田弘毅は、外交官時代から晩年の政治生活に至るまで、国交の決裂は避ける事、対米英、対中、対露において、あくまでも外交による和平の解決を可能な限り模索し諦めない姿勢、戦争は外交が行き詰まった果てに起こるという一貫した信念でした。しかし、軍事力による強硬路線の軍部との軋轢を解消できず、重臣として満洲事変、支那事変、最後の太平洋戦争を回避出来なかった事への責任感が、一切の弁解をせず死を受け入れたとあります。A 級戦犯として召喚された当時、政界、軍部を問わず「何故広田弘毅が召喚?」と驚きの声があがったと言われたようです。その事は外交で携わった外国の要人も認めている事でした。
そんな状況の中でも、広田は毅然と受け入れたとあります。

広田弘毅の生き方を「物来順応」なる難しい言葉で表現されています。
身に降りかかる事象を我慢強く受け入れ、我欲を捨て、計略する事もせず、物事に誠実に対処する広田弘毅の生き方に、人生の指針を見出す方が多い言われることも頷けます。

「落日燃ゆ」大日本帝国の勢いが衰え燃え尽きるさまは、多くの犠牲の上に生まれた新たな日本の幕開けでもあります。その先頭に立つべき広田弘毅の姿が無かったことは、多くの方が無念を感ぜずにはいられなかった事と思います。




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